2011年3月11日14時46分。
東日本大震災が、発災しました。
当日、仕事で横須賀にいました。
体験したことのない、長い揺れ。
しばらく、じっとしていました。
揺れが収まってから、携帯でテレビを見ますと、尋常でない地震の報道。
情報を得ることを優先して、30分くらい待機していました。
この時、子供達にメール。
鎌倉の状況がわりませんでしたが、居場所だけは確認しておきたい。
TVからは、今ままで見たことのない映像が流れていました。
急いで、車で鎌倉に戻ることに。
当然、一般道で戻りましたが、途中の信号機は、停電。
踏切は、開かない。
裏道を駆使して、なんとか発災4時間後に鎌倉に。
自宅の中は、本などが散乱している状態。
子供の姿もないので、外に出たところで、下の子供が友達とおばあちゃんが送ってきてくれました。
揺れが収まった後、小学校では児童を下校させてしまい、不安な子供が友達に家に行っていたとのこと。
このことは、のちに他の小学校でも下校させてしまい、大問題に。
上の子供の学校に行ってみて、校舎内に電気が点いていて、友達が呼んできてくれました。
ようやく、子供達を確保して、地域を回ることに。
小学校に行く途中で、観光客の方が「避難所はどこでしょうか。ミニ防災拠点とはあるのですが、避難所がわからなくて」。
一緒に電話ボックスまで案内して、小学校を案内しました。
鎌倉市では、「避難所」をわかりづらい「ミニ防災拠点」などと名付けていましたので、のちに変えさせました。
避難所に、職員が待機しており、市民の方も。
職員を確認して、対応について確認しました。
当日は、20時半過ぎに電気が復旧したので、子供達と帰宅。

翌日、被害状況の報道を見て、「何かしなくては」と、物資を集めるとともに、募金箱の用意。
日曜日、日頃応援いただいている方に、「物資を届けたいので、何か寄付お願いします」と集めてまわりました。
月曜日に、大船駅で募金活動をしようとしましたが、計画停電で横須賀線が動きませんでしたので、やむなく火曜日に、たった一人で募金活動を始めました。
大船駅階段下で募金をしていますと、信号待ちをしていた小学生の女の子が、お財布を開けて募金箱に寄付してくれたときは、涙が出てきました。
それを見ていた20歳くらいの青年たちが、「小銭でもいいですか」と、全ての小銭を入れてくれました。
「小銭がないので、お札入れます」。
必ず、被災地に届けます、と約束。

その週末、学童野球の開会式がありましたので、募金と子供達の野球道具の寄付をお願いしました。
募金箱をそのまま預かり、ボールとグラブを被災地に持っていくことに。

約2週間後、岩手県宮古市に、物資と募金を持っていくことにしました。
知人の車で、物資を積み込めるだけ積み込み、出発。
事前に、岩手県、秋田県の知人に、道路状況とガソリンの入手状況を確認しました。
ガソリンは、なんとかなる、と判断。
夜中に出発して、食料は持っていきました。

宮古で見た光景は、とてもこの世のものとは思えませんでした。
動くものがなく、360度同じ風景。
においもなく、黒い上に空の青があるだけ。
まだ捜索活動中で、救急車はサイレンを鳴らさない。
ただ、涙だけがとまりませんでした。

宮古市役所に行き、会計課に募金を渡しますと、「市長がどうしてもお目にかかりたい」とのことでした。
市長室に行きますと、大変な時なのに、お出迎えくださいました。
宮古の津波で、よく出てくる堤防を超えた映像は、市長室からの撮影とのこと。
お話を伺って、「中沢さん、被災地の状況を伝えてほしい」と市長。
10年、伝え続けることを決めました。
ボールとグラブは、市長に託しました。

宮古から釜石まで、海岸線を走りました。
津波被害で、道路は寸断。
山川を通りながら、できるだけ海の近くを走りました。
物資は、すでに多く届いており、中心部では必要がないとのこともあり、途中の中学校に立ち寄り、届けました。

帰ってから、日頃応援していただいている皆さんに話しますと、「中沢さん、妹の嫁ぎ先が南相馬で、仙台に避難しているけど、鎌倉に迎えたい」とのご相談をいただき、知人の空いている部屋を確保して、お知らせしました。
妹さんご家族は、「南相馬に戻りたいから、仙台で避難しています」、とのことでした。
胸が締め付けられる思いでした。
鎌倉では、きっと不自由のない日々が送れるかもしれませんが、それでも被災地の近くにいたい。
きっと、皆さん同じ思いなのだと思います。
その方は、「中沢さん、募金やりたい」とお話しいただきましたので、鎌倉駅で募金。

友人たちに話しますと、みんな進んで被災地支援に行きました。
1年間は、毎月被災地に行きました。
2年目は、2ヶ月に1度は被災地に行きました。
10年、通い続けました。
そして、今でも。

東日本大震災の翌週、子供のサッカーの試合が、Jビレッジである予定でした。
チームとしては、最後の公式試合。
いろいろな思いがあって、子供は準備をしていました。
当然、中止。
その後、W杯優勝。

被災地は、復旧が進んでいますが、今でも自宅に戻れない方が多くいらっしゃいます。
「忘れない」。